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宝石たちはどこまで宝石たりうるか【宝石の国6 感想】

あっと言う間に10月。気になっていた本が続々と発売されていて嬉しい限りです!

本棚のスペースを確保したいのでKindleを活用する一方、「これだけは!」って書籍は紙の本を買うようにしています。

例えばこちら。

作者ご自身が装丁を手がけているようで、きらきらとした紙と、線の少ないイラストが特徴的。

紙の本を買うのは、カメラで言うところの「所有欲を満たす」ってやつに似ている気がします。

そういう意味では、同じ紙の本でも、商業誌と個人誌の価値が完全に逆転する時代が来るのかもしれませんね。

過去に書いた「宝石の国」感想はこちらです!

 

ついに頭が◯◯する6巻(ネタバレ注意)

6巻では、冬が再びやってきました。

トラウマな3巻表紙と比べると、穏やかな様相なので安心したけれど、

内容はそんなことなかった。

冬は魔の季節ということだけがわかりました……。

 

月人たちとの猛攻は続き、フォスの新しい相棒、ゴーストも月へ。

月人たちを一掃してすっきり! な作品でないことは薄々覚悟しているので私は平気ですが、人によっては追いかけるの脱落しそうな展開が続きます。

 

前回の感想でも書きましたが、数百年のときを老いなく、変化なく過ごしていける宝石たちの中で、主人公のフォスフォフィライトは明らかに異質な立ち位置です。

かたつむりに食べられて王と意思疎通ができるようになり、足がアゲートに変わり、失った腕を合金で補い……

フォスフォフィライトは、どこまで何が残ったらフォスフォフィライト足りえるのでしょうか。

 

「テセウスの船」というパラドックスを思い出します。

以下、ウィキペディアから引用です。


パラドックスの1つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。 ある物体(オブジェクト)の全ての構成要素(部品)が置き換えられたとき、 基本的に同じである(同一性=アイデンティティ)と言えるのか、という問題である。


自転車とか、修理に出して部品やタイヤを交換していきますよね。

大事に使って、壊れたところから直したり新しくしたりしていって、最初に購入したときの「自転車の部品」は何一つ残っていなかったとき、それは購入したときの自転車と同じものと言えるのか? ということ。

 

今回の6巻では、ついにフォスフォフィライトの頭部が月人に持ち去られてしまいます。

そこでカンゴームから、「かつて頭部を残して月人にさらわれたラピスラズリの頭を、フォスフォフィライトの体に付ける」という提案が……!

 

それって、ラピスの頭を持つフォスになるか、フォスの体を持つラピスになるってこと?

それとも、フォスでもラピスでもない、全く違う何者かになってしまう???

 

生物にとって、頭って大事な部位じゃないですか。

そもそもフォスのような目に遭ったら、普通は死ぬでしょうし。じゃあ頭だけは別の人の……っていうのは不可能ですよね。

でも、この物語で出てくる宝石たちは、条件さえ合えばおそらく可能で。

もしも自分の腕や足がすでに違うものに置き換わっていて、さらに頭まで変わってしまったら……って考えると、「もうそれは自分じゃない!」って言いたくなりますよね。

とはいえ、宝石たちは「体を失うと同時に記憶も失う」みたいな描写があったので、

持っている記憶をアイデンティティとするなら、割合で見てぎりぎり多そうなフォスフォフィライトが主体になる?

ともとれますよね。

7巻で、「誰」が目覚めて動きだすのか。とても楽しみです。

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